私的ひとりずもう

さくら先生のひとりずもうという本が好きでときどき読み返す。だが、なぜか昨日は少しセンチ入ってしまった。というのは、こんな言葉。

(そうだよなー…私…何のとりえもないし…就職しないんなら進学しなきゃね。そんでまじめな会社に就職して、まじめな人と結婚して、まともな人生を送らなきゃ…。きっとそれが一番いいんだ。うん…きっと。)

これは、漫画家に憧れを持つ高校生のももこが進路に悩む心の中を描いたシーン。「何のとりえもないからまじめに働く」…なんだか全く私のことだと思った。別に自分が選んだことではあるけれど、このテンションで他人(しかも未来ある高校生とかに)改めて言われてしまうと、なんか、グサァ。

シンクに溜まった食器洗いながら最近、私ってこれに近いなとか思っていた。あたりまえに起きて働いて。うまくやっているはずなのに、腰が重い。始めてしまえば取り立てて煩いもないことだってわかってるくせに、いつしか定期的に食器がタワーを作るようになったり。同じように、つらいことや困ることもないけど、日々積み上がるタスクたちは良くも悪くも予測の範疇で。一応問題なくやっていると思っているのに、それがなんだか元気でない…とか、思ったりして。それらをひとつずつ片付けるごとに「私には光るものがない」なんて卑屈がやってきたり。変わらずちゃんと働いてはいるんだけどな。

とはいえ、安定して暮らしたいし、そこには味をしめて甘んじてたいんだけど(笑)。こんなこと20代のころはあまり思わなかったー。なんならこのまま暮らせりゃラッキーだったのに。焦っているのか?30代の等身大。とりえとか、最近やたらと問われる"やりがい"という言葉に、やたら翻弄されている。

 

 

暗い話で終わりたくないので、最後は楽しい話を。この本の私のお気に入りは、上巻15回の春の一日というお話。雑貨店で買ったアラスカの人形を無駄遣いと咎める両親に対し(まったく…お父さんもお母さんもわかってないんだから…こんなにカワイイのに…カワイイというだけで十分役に立っているのに)と心内で呟くところ。このセリフがマジでマジの全く禿同で、私のオタク心がきゅんとする。よく言ってくれた、私はももこに大賛成だよーと声を大に言いたい。その後がまた良くて、翌日ももこは、"たまちゃんのとっておきの場所"に行くのだが、人も少ないその場所で二人がみた景色が、見事に満開の桜だった。ももこが「誰に見られてなくても毎年咲くんだね」と感動する場面は、漫画家という…私の想像するに華やかだけれど孤独な職業においてその後の先生像とも重なり、読んでいてとても心温まった。なんというか、言葉で表し難いけれど、ここで私が思ったことは、努力や結実とかというよりは、ただただ、とある瞬間目を引いた素晴らしいものに純粋に感動してありがたみを思う時間はしみじみ良いなぁということ。そして、そんな時間をなにがしかのきっかけと捉える人がいるかもしれないことが、良いなぁ、なんて。勝手な想像だが、この時の桜の姿は、おなじく"さくら"の名を持つ先生の心に留まった出来事だと思った。誰にわかってもらえなかろうと、恥ずかしくて人に言えなかろうと、自分にとって価値ある夢をちゃんと大事にすると決意していったきっかけの一つなんだろうなと。そして、横にたまちゃんがいる"必然性"みたいなものが、良い。なにか重要なきっかけになる場面に、タイミング、場所、セリフ、すべてが完璧な調和で、他でもない無二の親友が横に居る。すごく、良い。私がシンメ厨してたからかもしれないけど、勝手に胸熱。

なんというか、あと、かわいいものを愛でるときってすごく幸せですよね。在りきたりだけど「生きていてくれてありがとう、出会ってくれてありがとう、彼・彼らの選んできたなにがし、縁して触れてきたなにがしありがとう、そして、推しと同じ時を生きる自分も、すべての幸運にありがとう……」。脈々と湧き出づる感謝の泉(謎)。彼らにときめく自分のセンスなんかにも自信持ったりしちゃって。調子が良いと勢いしたたかに、"すべてのいのち尊いなー"だなんてわけわかんないこと思ったりもして。ま、刹那を切り取れば「かわい゛い゛ーー!!!!!」としか思ってないんですけど(単細胞)、でもその瞬間がとてもたのしくて、いとおしい。胸キュンひとつで尊厳を見い出し地球が回る(言い回し草)。確信をもって、かわいいは役に立つ。この場面は好き

 

 

なんか、この年でも進みたい道なんて見えないもんだなーと。大人になったら、なんか、経験値が導いてくれるもんかと思ってた(笑)そういうところなのか